1 「高校の化学をわかりやすくする会」設立のお知らせ

 

拝啓

 陽春の候,諸先生方にはお元気でご活躍のことと推察致します。

 近年,理科離れがさわがれ,その原因について種々取り沙汰され,そのために何等かの対策も提案されています。先生方の中には,本当に理科教育について心配され,そのためにご活躍していらっしゃる方も多いと存じます。しかし,その具体的な成果としては,日本化学会の大学入試関係小委員会で検討された問題点が発表される程度で,少しは試験問題に改善が見られるものの,なかなか根本的な化学教育の改善にはつながっていないように思われます。大学入試が高校の教育を歪めているという主張は,間違ってはいないと思いますが,高校の教育の問題点は入試のみが原因ではないのではないのではないでしょうか。

 本会を設立するに当って,高校の化学教育の問題点を入試とは別の観点から探してみますと,高校の化学の教科書にも大きな問題点があるように思われます。教科書は,文部省の学習指導要領に基づいて執筆されているので,本当は学習指導要領に問題があるのかも知れませんが,実際発行されている教科書を比較検討してみますと,執筆者の主張があちこちに現れていて,それなりに違いがあります。教科書と言えども,執筆者の責任のもとに,高校生に伝えようとしている何かがあれば,それが現れているのでしょう。しかし,1冊の教科書になったものを見ると,個々のテーマの執筆担当者の書いた文章が,それら相互の関連を考慮することなしにそのまま羅列されていると言ってよいのではないでしょうか。学習指導要領に基づいて,あれもこれも書いておかなければいけない,このテーマも入れなければいけない,というものを単に寄せ集めただけになってしまったように思えます。その結果として,化学を暗記物に仕立てるような教科書,本来密接に関連しているはずのテーマをバラバラに提示して論理を分からなくしてしまうような教科書ばかりになっているように思えます。また,高校生の何故という疑問にまともに答えている記述は極めて乏しく,事実の羅列や,何やら理由らしきものが書いてあったとしても事実の言い換えに過ぎない記述ばかりのように感じます。もっともっと「高校生にこれを伝えたいのだ」という執筆者のメッセージを書いてあって当然と思います。物質についての科学と化学を位置付けるならば,論理を省略することは絶対にしてはならないことと思います。化学の種々の理論の中には,高校の化学では省略してもよい,省略した方がよいものが沢山あると思いますが,論理の省略は許されません。また,他の分野との論理的な整合性を失うことも厳に慎まなければならない筈です。高校の化学教育を良くするための第一歩に,教科書の改善は是非とも必要ではないでしょうか。 

 ここまで検討してきた教科書は,主に大学受験を考えている生徒達が用いると考えられる化学IBについてですが,文科系や職業高校の生徒達が用いるように企画されて生活との関連に注目して記述されているとされている化学IAでも,これが高校の化学で学ぶべき内容なのか,はなはだ疑問です。化学が実生活でもこんなに役だっているということを知ることと,化学的な物の考え方を学ぶことは全く別の話であり,仮に身の回りに普通に存在する物質でも,化学的に特殊な物質であれば教科書では取り上げないという選択をすべきであり,逆に身の回りにには普通には存在しない物質でも化学の論理を考える上で典型的なものであれば取り上げなければいけないと考えます。高校で化学を学ぶ目的は何かを考えて,化学IAのあり方は根本的に再検討しなければいけないと思います。非公式の場でのある教科書執筆者の発言ですが,高校で理科を履修する生徒が減少してきていて,そのために理科の教員の死活問題になってきているので,とにかく理科の教科書から難しそうな記述をなくしてとっかかりやすいようにして,理科を履修させるようにすることが先決なのだ,ということを言っておられました。およそ理科で何を教えたいのか,それをどのように教えたいのかということが全く考えられずに教科書が出来上がっている現実を知って,非常に大きな失望を感じました。そのような考えに立って,化学IAの教科書が書かれているとしたら,化学教育全体から見ると百害あって一利なしといって良いかと存じます。そんなことなら化学を学ばない方が,教科書に導かれた一面的物の見方にそまらず,その子なりの考え方が活かされのではないでしょうか。

 さて,高校の化学教育を考えるとき,先生方におかれましてもいろいろな問題をお感じになり,様々な形で問題提起をしておられますことは小生達も良く承知しているつもりでおります。しかし,それが具体的な成果となって教科書に反映されてはいないのが現状ではないでしょうか。先生方からの問題提起は貴重であり,これを何らかの形にして現実的に,高校の化学教育を改善していきたいと小生達も考えております。また,小生達も予備学校というところで,高校までの教育の様々な矛盾を抱えこんだ生徒達に接していて,高校までの化学教育についていろいろな問題点を感じております。予備学校に来る化学が苦手の生徒達を教えてみますと,結構真面目でそれなりに努力している子も多いのです。そういう子達が分からないことは,もちろん化学的な内容が難しいこともあるのですが,教科書の説明が悪い場合が良くあります。あるいは,教科書にまともな説明がなされていない場合も多いのです。予備学校に来ることなしに大学入試を通過していく要領の良い子達は,あまり疑問をもたず,どういう方法で問題を処理すれば解けるということだけには長けていて,深く考えるということをしない子達が多いのです。将来の化学を担う人材は,要領が悪くてもいろいろなことに疑問を感じ,深く考える子達に違いないのに,そういう子達の疑問に答えていない教科書しかないのは困った問題です。小生達も真剣に化学教育について考え,微力ではありますが,少しずつ教科書の改善のために発言をしてまいりました。これを,実効あるものにすべく,諸先生のお力をお借りしたくお願い申し上げます。

 化学教育を考える上でもう一つ忘れてはならないのが,実際に高校で生徒達に接している高校の先生です。予備学校で実際に生徒達に接していますと,あれもこれも習っていない,そんな考え方は初めて知った,という場面に頻繁に出喰わすのです。その割りには,細かい知識は結構知っていて,こちらの方が面喰らうようなことも多いのです。どうも高校の先生方は,化学は知識の量で勝負,と考えている人が多いようで,科学的な論理はほとんど指導していないように見受けられます。そういうことを教えられる先生が極めて少ないのが現状のようなのです。また,これもある教科書執筆者から非公式に聞いた話なのですが,化学者の目からみて非常に良い教科書ができたとしても,それが教科書として採択されなければ意味がなく,

実際に教科書の採択の権限を持っているのが高校の先生で,高校の先生に受け入れられるようにするのがまず第一だ,というのです。それに,教科書会社としても化学的な内容よりも,まず売れることが必須の条件だ,というのです。そうすると,新しい考え方は当然受け入れられないことになるので,旧態依然としたものばかりが出版されことになってしまうのが現実らしいのです。教科書の中身が改善されない原因の第一は執筆者にあるのは間違いないと思うのですが,それと同程度に高校の先生の保守的な考え方にも大きな原因がありそうなのです。新しいことを教えるためには,その内容を理解していなければならず,そのために新たな勉強を高校の先生達に強いることになりかねないのですが,特に教科書の採択に強い権限を持っている年配の先生達に,そういうことに強い抵抗があるようなのです。でも,これをなんとか解決しなければ,高校の化学教育は良くならないと考えます。

 以上のような事情を踏まえて,高校の化学教育を改善すべく,諸先生のお知恵,お力を拝借したいと考えまして,「高校の化学をわかりやすくする会」を設立致したいと思います。つきましては,お忙しいところとは存じますが何卒ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。まず行いたいことは,教科書の改善です。化学の最前線の研究の成果を取り入れることもときには必要かも知れませんが,既に確定した化学的な事項について,化学教育という立場から全体を見直して高校生達に最も分かりやすいように再構成し,場合によっては従来から行われてきた説明原理も再検討してみようということなのです。現在のところ,浅学の身で小生達が考えて,是非とも変更した方がよい,改善した方がよいと思われる点は,別紙のような項目です。御意見を伺えれば幸甚です。もう一つは,高校の先生達への啓蒙活動です。小生達も,予備学校で化学を教えていて,大学で化学を専門に学んできたはずなのに,しょっちゅう知らないことに出喰わします。そんなことは当り前で,大学で学んだ内容なんて化学のなかのほんの一部なのですから,高校の化学の内容を全部知っているなんていうことは不可能なのです。だから,知らなくていいんだ,ではなくもう少し勉強しよう,という方に高校の先生達の意識を少しずつでも変えていきたいのです。何といっても高校生達に直接接するのは先生達なのですから。

 高校生達に「化学はこんなに面白いのだ!」というメッセージを送り続けたいと思います。そして,理科離れなんて遠い昔の話にしてしまいたいと思います。そのために小生達も微力を傾けたいと思っております。どうかお力をお貸しくださいますようお願い申します。具体的な日時等決まりましたら,あらためてお知らせ致しますのでご協力のほど宜しくお願いします。

                              敬具

           平成7年3月吉日

        「高校の化学をわかりやすくする会」

                   会長         

             駿台予備学校 化学科講師 

                             大川 忠

                   事務局長

                    駿台予備学校 化学科講師

                             大橋 憲三

追) 別紙に高校の化学の教科書改善のための試案を添付します。

 

 

2.高校の化学の教科書改善のための試案

 

 文部省の高等学校学習指導要領によれば,化学IBの目標は「化学的な事物・現象について観察,実験などを行い,化学的に探求する能力と態度を育てるとともに基本的な概念や原理・法則を理解させ,科学的な自然観を育成する。」となっている。いわゆる探求活動が,新しい学習指導要領の目玉の部分であるようなので,これが高校の現場でどのように生かされ得るのか,ということについてはここでは論評しないことにする。探求活動の部分を除くと,化学的な事物・現象について基本的な原理・法則を理解させ,科学的な自然観を育成する,というのが化学IBのもう一本の柱である。つまり,化学は物質の存在形式と物質の変化(状態変化と化学変化)について,基礎的かつ原理的説明を与えるものであろう。そのためには,次のような問に,適切な答が用意されていなければならない。

    物質はなぜ変化するのか,どのように変化するのか。

    翻って,物質はなぜ安定に存在しているのか。

この問に対する答として,小生達が考える一つの案は,化学の学習において,粒子概念,エネルギー,平衡の3つが基本概念であり,これらに基づいて諸事項を説明することである。そのためには,学習するテーマの選択を慎重に検討し,場合によっては現行の教科書に取り上げられているテーマでも削除することもやむをえないし,高校の化学ではこの3つの基本概念を基に説明できる事項を選ぶようにするのが良い。このような考えに基づき,具体的に以下のような改善案を提示する。

 

■ 原子量・分子量はモル質量に

 ○ 高校の化学では,原子・分子の質量を相対質量として表す必然性はない。

 ○ 化学史としては,原子量・分子量は重要だが,高校の化学ではモル質量としての使い方しかしない。

 

■ 原子の構造と原子の性質は密接に関連している

 ○ 原子スぺクトルの解析から原子のボーアモデルが導かれたことはその通りだが,原子の性質をボーアモデルに基づいて説明しようという意図が必要。

 ○ イオン化エネルギーから「陽イオンになりやすさ」がわかるか?わかるはずだが,実際に安定に存在する水溶液中や結晶中のイオンは,水和熱や格子エネルギーの考え方が必要であり,その区別を明確にすべし。                      

 

■ 濃度の表示方法はできる限り簡単に

 ○ 重量%濃度は簡単か?

 ○ 気体の溶解度を体積で表示することが,気体の溶解平衡の理解を困難にしている。気体の溶解度とは,気体で存在する物質溶解平衡になっているときの溶液中の濃度を表しているのである。

 ○ 固体の溶解度も溶媒100gに基準におき,溶解度を質量で表示する方法は,単に過去からの方法を踏襲しているに過ぎない。そのために,他の濃度表現との関連を見えにくくしている。

 ○ 基本的には濃度はモル濃度のみで良い。温度変化を扱う場合のために,モル分率または質量モル濃度を残す。

 

■ 熱化学だけでエネルギーを扱うわけではない

 ○ エネルギーの大小は系の安定性を支配することこそ重要である。したがって,物質の変化を考えるときは常にエネルギーを考慮するようにすると良い。

 ○ 化学結合の形成は,常に系のエネルギーの減少と表裏一体となっている。化学結合の分類をするよりも,なぜ化学結合を形成し得るか,すなわち系のエネルギーが減少するかを考えることの方が重要である。

 

■ 化学平衡は難しいか

 ○ ルシャトリエの法則を用いて平衡移動の方向を予測することが化学平衡か。平衡定数を用いて平衡時の成分物質の濃度を求める作業は難しいか。

 ○ 水溶液中の平衡を理解することで,多くの事項を良く理解できる。

  ・ 弱酸や弱塩基の電離平衡によって,電離,加水分解,緩衝溶液と異なる現象のように扱われていることが,溶液内に存在する物質の違いを認識すれば,すべて同じように取り扱うことができる。平衡定数を用いて行う計算の作業は,たかだか二次方程式を解く程度で,さして難しくはない。溶液内に存在する物質の違いを,化学的に正しく認識することが重要である。

  ・ 沈殿の生成反応や錯イオンの生成反応も,平衡定数を用いて定量的に扱うことができ,理解が深まる。

  ・ 酸化還元系を定量的に扱う方法として高校では電池の起電力を学ぶが,これも本当は化学平衡と密接に結び付いている。ネルンストの式まで登場させる必要はないが,化学平衡との関連は示すべきである。

 ○ 物質の状態変化でも平衡の理解が重要である。気液平衡が成り立っているときの気相の蒸気の圧力が蒸気圧である,といっても気液平衡の状態を正しく理解できなければ現象はほとんど理解不能である。 

 

 

.高校化学をわかりやすくする会に至るまでの経過とその後のあゆみ

 

 平成4年 秋     駿台予備学校化学講師の有志によって、高校化学の内容や受験問題に関して勉強会をやろうという動きが始まる。呼掛け人は大川、大橋の両名。

 平成5年 4月 1日 駿台予備学校化学講師有志の組織「教材研究会」発足。

            以降、8回の研究会を開催(平均参加者7名)。以下開催日と            研究テーマを記す。

      5月28日 第1回 「化学結合」で伝えるもの。

      6月18日 第2回 「蒸気圧」とは何か。

      7月 9日 第3回 「熱化学」の明らかにするもの。

      8月 4日 第4回 「弱酸の電離平衡」の本質。

      9月17日 第5回 「理想気体と実在気体」の違いの内容。

     10月20日 第6回 「分子量の計算について」。

     11月15日 第7回 「酸化還元反応」。

     12月 8日 第8回 「無機化学」で伝えるべきもの。

 平成6年       研究会は継続して4回開催される。

      7月 4日 第1回 「気体反応の圧力」について。

      9月17日 第2回 最新化学事情「量子化学」。

     11月15日 第3回 「電池の起電力」について。

 平成7年 2月 3日 第4回 「原子の性質と原子の構造」

            尚、平成7年度の研究会に関し、駿台予備学校内化学講師有志の「教材研究会」を「化学教育研究会」と名称変更することに決定。

            また、駿台予備学校内外に広く開いた研究行動組織として「高校化学をわかりやすくする会」を発足。代表に大川、事務局に大橋就任。

      3月27日 高校化学をわかりやすくする会が日本化学会化学教育部会に参加し、会の主旨のパンフレットを配布する。

      4月14日 平成7年度学習ソフトウェア研究開発委託事業の募集締切(募集開始3月13日)

            ビジュアルサイエンス開発委員会をつくり、「ビジュアル化学」その1を応募。

      6月12日 平成7年度学習ソフトウェア研究開発委託事業の内定通知受領。

応募総数128件、うち内定件数17。

      6月13日 ビジュアルサイエンス開発委員会発足(この成果が1年後、溶解現象シミュレーション[Solve It!]のCD-ROMとなる)。

 平成8年 5月13日 [Solve It!]の完成と大川氏の参考書(文永堂)出版記念パーティを催す(於:学士会館本郷分館)。

 平成8年〜  11年 年平均4回の研究会をおこなう。 

            この成果を大川がまとめ、日本化学会誌[化学と教育]に掲載される(高校化学への問題提起のページをご覧下さい)。

 

 

4.「高校化学をわかりやすくする会」の会則

 

■ 会の目的

  1 現行指導要領に基づく教科書を通じて、高校化学の内容を検討し、改良を加えつつ体系化をはかる。

   (1) 高校化学の教授上及び学習上の曖昧さや困難性などの問題点と意見の収集。

   (2) 大学入試問題の曖昧さや困難性などの問題点と意見の収集。

   (3) 上記1・2に関しての改善や体系化の方向性の提起。

  2 大学の一般教養課程の化学も検討し、これとの有機的接合をはかる。

 

■ 会の活動

  1 上記の目的のための情報収集と問題提起。

  2 講演会・座談会・シンポジウムの開催

  3 会誌の発行

 

■ 会の構成

  1 会は会長・幹事会・事務局・会員から構成される。幹事・事務局は会員から互選され、会長は幹事より互選される。

  2 会の運営の方針は、会長が議長をつとめる幹事会が決定し、日常運営は事務局が担う。

 

■ 会員

  1 会員  高校教師、予備校・塾講師、大学教官、教育機関関係者、その他関心のある者で会費を払う者。

  2 法人会員 法人会費を払う法人。

 

■ 会の財政

  会費と寄付金によっておこなう。

 

■ 会の退会

  本人の意志により、随時退会できる。

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